撮影 下村一喜
01
黒柳徹子さん
Tetsuko Kuroyanagi
校友会ウェブサイトの開設から1年となり、これを機に卒業生のインタビューページを増設いたしました。
第1回は東洋音楽学校第42回(声楽)卒業の黒柳 徹子さんのウェブインタビューです。
お忙しい中、戦後すぐの学生時代のエピソードなどお応えいただきましたので、黒柳さんのテンポのよい軽快なトークをお楽しみください。
早速ですが、黒柳さんが東洋音楽学校をお選びになられた経緯をお聞かせください。
- 黒柳さん:
- 私は高校生の時に『トスカ』という映画を観て、それがオペラだということが分かり、あのような人になりたいと思い、どうすればなれるのか家の人に聞きましたところ、母が東洋音楽学校出身だったので色々と詳しくて、それには音楽学校に入らなければならないということが分かりました。
ちょうど高校生で、あと2、3年で進路を決めなければならないときだったので、「私は音楽学校に入ってオペラ歌手になる」と友人にも話していました。
そこでどこの音楽学校に入ろうかと決めかねていたのですが、芸大は難しいからダメらしいということで、最初は東洋音楽学校とは違う学校を受けようと思っていました。しかし、戦後のすぐあとのことで学校も焼けたりしたこともあって、学校もお金が必要だったようで「寄附はおいくらしていただけますか?」と聞かれ、びっくりしました。当時父はN響のコンサートマスターをしておりまして、父は私がオペラ歌手になるなんてとんでもないことだと思う人だったので、「そんな調子っぱずれなのにどうするんだ」と言われると思い、父には黙って受けるつもりなので、寄附はできないし、どうしようかと思っていました。
思い悩んで探していたところ、母(黒柳朝さん)が東洋音楽学校出身だったので、同じ東洋音楽学校出身の淡谷のり子さん(1929年卒業)と仲が良くて家も近所だったので、淡谷さんがよく家にいらしてました。
淡谷さんがお化粧道具をお持ちになって、母と話しながらつけまつげをつけて、目を大きくお化粧されると「目の所在を明らかにせねば」とか仰って、お化粧がすっかり出来上がるとNHKとかいろいろな所にお出かけになったりしていたので、私も東洋音楽学校にしようと思いました。
他のところも受けようと思ったけど、家から遠かったりして、その中でちょうどよかったのが東洋音楽学校でした。国立音楽大学も武蔵野音楽大学も遠くて、東洋音楽学校は目白から行けばよかったので。
当時の入学試験はどのような科目がありましたか?
- 黒柳さん:
- 入学試験科目にピアノがありました。ピアノは小さい頃からやっていたので少しは弾けていたと思います。
一般常識的な試験もあったように思います。あと歌ですね。
当時は誰でも楽器が買える時代ではなかったわけですね。それで黒柳さんの前後の学年をみても声楽科が多かったわけですね。黒柳さんの学生時代でのお話を聞かせてください。
- 黒柳さん:
- あまり記憶がないですが、そうそうNHKの紅白の司会をしたときにちょうどレコード会社からデビューされた三浦洸一(東洋音楽学校卒業生)さんが先輩になりますが、私の周りでは有名ですね。私のレッスンは先生のお宅に行って受けていました。
大谷洌子先生にレッスンを受けていましたが、オペラ歌手の方で東洋音楽学校の先生ではなかったと思います。
黒柳さんが「夜の女王」を歌われたと聞いたことがありますが、そのような機会があったのでしょうか?
- 黒柳さん:
- 「夜の女王」は何処かで聴いて、歌ってみたらあの高いところの声が出たので、コロラトゥーラの先生を探して習いたいと思いました。当時の私の先生はどちらかというとアルトに近い声の先生でした。
その当時はどの先生に習いたいとか選べなかったので、私の習った先生もとても良い先生だったですけど、ソプラノに近いアルトのような声の先生でした。私はコロラトゥーラをやりたかったので、先生を探しましたが見つからなくて、その時に見つかっていたら本当にオペラをやっていたかもしれません。
「夜の女王」をコンサートで歌ったとすると六本木の先の飯倉という所にいずみたく(作曲家)さんが小さい劇場を持っていて、そこで他の歌手の方と一緒に歌って、私が「夜の女王」を習って段々上手くなるというコントみたいな面白い作品で歌ったことがありました。
先程は学校の様子をお伺いしましたが、黒柳さんが通われていたころは雑司が谷に校舎があったと思います。この辺もだいぶ変わってきましたが、鬼子母神や都電は当時と変わっていないのではないかと思いますが、何か思い出がありますか?
- 黒柳さん:
- そうですね。とにかく学校の前にラーメン屋さんがあったのはよく憶えています。
手打ち麺でしたね。お爺さんが壁に穴を開けて竹筒を通して、そこに足を引っ掛けてメリケン粉を捏ねて手打ちの麺を作っていました。
ちょうど私が学校に行っているころにラーメンが出始めて学校の近くのラーメン屋さんに行ったら35円でした。あと鬼子母神にも皆でよく行きました。食べ物しか思い出がないみたいですけど、焼き芋を食べながら「将来どうするのか」なんてことを皆で相談したりしていました。でもそんなことやっているうちに皆はレコード会社とか藤原歌劇団とか将来を決めていて、私は全く決めていなくて、ただ焼き芋食べて「美味しいな」なんて。
あとパン屋さんがありましたね。学校の中にお昼になると出ていました。
私だけ遅れを取ってしまい、卒業する間際には皆決まっていたので、私はもうだめだなと思い、このまま結婚でもするんだろうな、と思いながらプラプラ歩いていたら、ちょうど人形劇を見まして、その人形劇が素晴らしかったので、自分の子供にもこんな人形劇を見せてあげたら喜ぶに違いないと思って、人形劇を教えてくれるところはないかと探しました。
どうすればよいかと新聞を見たら、テレビが始まるのでNHKで俳優を募集しているのを知り、もしNHKに入ったら人形劇を教えてくれるかもしれないと思って試験を受けることにしました。
応募者6000人くらいから13人になり、とにかく13人のうちに残りまして、それまではお母さんになるつもりでしたけど、そのままNHKにずっといることになりました。
NHKで歌の試験があったので、歌いましたらガラス張りの副調整室から偉い人たちがぞろぞろ出てきて、「君は履歴書に東洋音楽学校声楽科卒業と書いてあるけどこれは本当ですか?」と言われ、「本当です!」と言ったのですが、声楽科卒業を疑われたりして、随分ひどいなと思ったりしました。そこから私のこの生活が始まったのです。初めのところで学校のお世話になったということですね。
先生は大谷冽子先生の前に習った先生がいましたが、やはりソプラノでコロラトゥーラではなかったですね。
学生時代のお友達では先程の三浦洸一さんが有名ですが、最近は「徹子の部屋」に「東京音楽大学卒業です。後輩です。」という方が何人も出ていらして「すごいな」と思いますね。
「徹子の部屋」を拝見していますとご出演者の方の物まねをされたり、今でも色々な事に興味をもっておられるお姿を見て素晴らしいと思っています。何か心掛けていらっしゃることがありますか?
- 黒柳さん:
- そうですね。教わったことはよくメモを取るようにしています。
私がメモ取っていると「何書いているの?」とよく言われますが、皆が思っているよりも勉強しているつもりです。
2012年に本学創立105周年記念同窓会で、その年は付属高校も80周年でしたので、黒柳さんを池袋校舎の100周年記念ホールにお迎えして、卒業生に向けてお話いただきました。また、2019年には日本テレビの「24時間テレビ」という番組で中目黒の新しいキャンパスにご訪問されましたが、いかがでしたか?
- 黒柳さん:
- あまりにきれいな校舎になっていたのでびっくりしました。
『日本テレビ「24時間テレビ」について』
- 会長:
- 「24時間テレビ」の企画で学生たちと合唱されていましたが、当時大学1年生で参加しておりました西村幸音さんが来ておりますので、黒柳さんとお話させていただきます。
- 西村:
- こんにちは。西村幸音と申します。2019年には声楽専攻の大学1年生で参加していましたが、今年3月に卒業しました。今はフリーランスで歌の仕事をしています。
黒柳さんとご一緒させていただいたときに「相談コーナー」があり、一人の学生が「自分に自信がもてない」と黒柳さんにご相談した時に「自信はやってみて後からついてくるもので、初めから自信がある人なんていないのよ」とアドバイスしてくださったことが印象に残っていて、私自身も会社に就職するか、好きな音楽を続けていこうかと迷ったときに徹子さんのアドバイスを思い出して、もう少し歌でやってみようと決心して社会人一年生になりました。ありがとうございました。大変なことも沢山ありますが、徐々にお仕事を増やせていけたらと思っています。具体的にはCMとか映画などの劇伴を歌ったりしています。
クラシック音楽ではありませんけれども、続けています。
- 黒柳さん:
- でもなんでもいいわけですもの。歌であることに違いはありません。私もコマーシャルはどれだけ歌ったかわかりませんよ。
三木鶏郎さんという方の作曲が多かったですが、私はNHKの専属だったので、黒柳徹子と言えずに、その当時下馬(世田谷区)という所に住んでいたので、下馬を上馬にして、それにピンからキリまであるということで、「上馬キリコ」という芸名を付けてくださってコマーシャルを歌っていました。
これからもお幸せを祈っています。
- 西村:
- ありがとうございます。私の歌が徹子さんのお耳に入るように頑張ります。
黒柳さんと学生の共演で「東京音楽大学」という大学名も全国に広められました。卒業生として誇らしく感じております。いつも母校を大切にしてくださり、本当にありがとうございます。卒業生は約15,000人になりますが、その中には音楽に携わっているばかりでなく、いろいろな分野で卒業生が活躍しております。
卒業生全体に向けてお話しいただけますか。
- 黒柳さん:
- 私の学生時代にはドイツ語の授業になると窓から逃げ出していても、許されていたようで、ギリギリ縛られることなく自由な校風で、「何て、いい学校なんだ!」と思っていました。それでもちゃんと卒業まで在籍していました。
まわりの環境も鬼子母神が近くにあって、鬼子母神は赤ちゃんが無事に産めるようにという神様がいてそこに妊婦さんがお参りに来たり、緑も多くてゆったりした時間が流れているように感じていました。私がいたときは環境もよく風通しのいい学校だと思っていました。
皆さんもそのような環境で勉強できていたのでいいと思いますよ。
私は音楽とは全然違う道に入りましたけど、でもやっぱり卒業したことは忘れませんし、今でも歌えと言われたらコロラトゥーラも歌えないことはないです!
- 会長:
- お忙しいところ本日はありがとうございました。インタビューを通じて黒柳さんのエネルギッシュなお話しぶりには素晴らしいと感じております。
これからも卒業生が集まったり、学生さんとご一緒に歌ったりする機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。また私たちもご一緒出来る機会がありましたらと思っています。
お身体を大切にご活躍ください。
- 黒柳さん:
- これからも学校が繁栄されることを祈っています。
良い方がたくさん卒業されたらいいなと思っています。